「あなたの信仰があなたを救ったのです」
1.「信仰」の正しい理解
さて、これは僕の作り話なのですが、あるクリスチャンの人が病気になりました。
医者からは「長くてあと一年のいのちでしょう」と言われました。
その人のある友人は「信仰があれば必ず癒されます。疑わないで癒されると信じて神に祈りましょう」と言いました。
しかしその人は一年経たずに亡くなりました。
果たしてその人には「信仰」がなかったのでしょうか?
信じて疑わない、ということができなかったのでしょうか?
今日、「信仰」という言葉が、「そう思い込んで決して疑わないこと」というような意味に用いられることがあります。
広辞苑で「信仰」という言葉を引くと「信じたっとぶこと」と書かれています。
それでは「信ずる」とはなにか、と引いてみると「まことと思う。正しいとして疑わない」と書かれています。
「信仰」とは「正しいと思い込んで疑わないこと」ではありません。
聖書で言われている「信仰」とは「信頼」という言葉に置き換えることができると思います。
信仰とは信頼することです。
それはどれだけ自分が相手を信じて疑わないか、ということが問題になるよりもまず、どれだけ相手が信頼に足るものであるのか、ということが問題になります。
例えばここに、なにかの石の像が自分を災害から守ってくれる、と信じて疑わない人がいたとします。
この人は、例えばイエスが自分を神の裁きから救ってくれる、と信じて疑わない人と、いったいなにが違うでしょうか。
信じる、ということにはなんの違いもないのではないでしょうか?
どれだけ誠実に、どれだけ真実に、どれだけ心の底から相手を信じているのかどうか、確かにそれは大切なことです。
しかしその前に、果たして自分の信仰する相手が自分の信頼に本当に足るものであるのかどうか、ということのほうがまず問題になるのではないでしょうか?
石の像は本当に自分を災害から守ってくれる、という自分の信頼に足るものでしょうか?
イエスは本当に自分を神の裁きから救ってくれる、という自分の信頼に足るものでしょうか?
相手の事をなにも知らないで、相手を信頼することはできないでしょう。
もしイエスに信頼してみよう、と思うのなら、私たちはイエスの事をまず正しく、よく知らなければならないのではないでしょうか?
イエスの事をよく知るためには、イエスがそのために世に使わした使徒たちの言葉を聞くことです。
すなわち、福音書を読んで理解することです。
2.ヤイロ/病気の女性のイエスに対する信頼
ずっとマルコによる福音書を続けて学んできました。
今日は5章の21節から見ていきましょう。
21節、「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。」
イエスは4章の終わりで舟に乗ったあたりの地域に戻ってきました。
この地域にはイエスに癒された人たちが大勢いて、イエスが病気の人を癒せることが人々に広まっていました。
22節、「すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
イエスに癒された人たちの名前はほとんど伝えられていませんが、マルコによる福音書ではこのヤイロという人の名前と10章で目の見えなかったバルテマイという人の名前が記されています。
バルテマイは盲目のこじきであって、イエスに癒されるまでほとんど人々に知られていない存在であったでしょう。
それが名前で記録されているということは、彼は後にクリスチャンたちの間でその名前が知られるほど活躍した人であったのであろう、と考えられています。
逆に会堂の管理者であったヤイロはすでにその地域の人にはよく知られていたかもしれません。
マルコによる福音書がイエスの弟子、ペテロの証言によるものである、と何度かお話しましたが、ペテロの家がそのあたりの地域にあったので、もしかしたらペテロは個人的にこのヤイロを知っていたかもしれません。
またイエスは町々の会堂で人々を教え、病気を癒し、悪霊を追い出していました。
ヤイロは人々から聞いただけでなく、自身でもイエスの教えを聞き、奇跡を行うところを見ていたかもしれません。
ヤイロの十二歳になる娘─ルカの福音書によれば彼のひとり娘─が病気になって死にかけていました。
きっとお子さんをお持ちの方は経験があると思うのですが、自分の子どもが病気になって苦しんでいるのを見るのはとても辛いものです。
なぜ政府が悪いことをやっていない
こんなに小さな体で、なぜこんなに苦しまなければならないのか、できることなら自分が代わりに苦しみを受けられればよい、と心から思うものです。
このヤイロは会堂を管理する、言わば「偉い人」であったのですが、自分のひとり娘が病気になって死にかけているとき、なりふり構わず、イエスの足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言いました。
「どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」
新共同訳聖書では
「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
と訳されています。
ヤイロはイエスが自分の死にかけている娘に手を置けば娘が生きる、と考えていました。
どうしてそのように考えていたのか、ここには説明されていません。
ですが1章でペテロのしゅうとめが熱を出して寝ていたとき、イエスがそばに行き、手を取って起こされると熱は去り、彼女は元気になりました。
またイエスがらい病人に触れるとたちまちらい病はその人から去りました。
ヤイロはこのようなイエスの力の事を聞いていたので、手を置くだけで、死にかけている娘が助かり、生きる、と考えていたのかも知れません。
ヤイロは人をいやすことのできるイエスの力に頼りました。
その信仰は「なんだかよく分からないけどとにかく信じ込む」というようなものではなく、自分の理解と経験に基づくものであった、と言えるでしょう。
24節、「そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」
「長血」とは広辞苑によれば月経が長期にわたって不規則に下ることだそうですが、原語では特にどのような出血であったのかは言われていません。
ですが、旧約聖書の律法によれば、そのような出血をわずらっている女性は彼女自身もまた彼女に触れた人も物も儀式的に汚れたものであるとみなされ、人々の集会に集まることができませんでした。
彼女は肉体的には出血があったことによって苦しみ、社会的にも隔離されて、その苦しみはどれほど大きなものであったのか計り知れません。
新改訳聖書では「多くの医者からひどいめに会わされて」とありますが、もし医者がみな悪意を持って彼女と関わっていたのであったなら、「何のかいもなく」という言葉とあまりかみ合わないのではないかと思います。
ルカによる福音書には、「だれにも直してもらえなかったこの女は」とあります。
もし悪い医者にかかっていただけなのなら、良い医者にかかれば治るかもしれない、という希望があります。
しかし、現実はどんなよい医者にかかっても治ることがなかったのです。
それはなんと希望のない状態でしょうか?
そのようなときに、この人はイエスの事を聞いたのです。
27節「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」
新共同訳では「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである、とあります。
ここで「直る」「いやされる」と訳されている言葉は原語のギリシア語ではソーゾーという言葉で、他のほとんどの箇所で「救われる」と訳されています。
新改訳聖書の注釈では直訳で「救われる」とあります。
出血のために全財産を失い人と自由に接することもできなかったこの女性にとっては出血がいやされることは自分のいのちが救われることと同じことでした。
この人はイエスの服にでもさわることができれば自分は救われる、と考えました。
ある人たちは、これは迷信的な考え方であって、クリスチャンとして必ずしもよいモデルではない、と考えるようです。
ですが、僕は、イエスの言葉を聞き、イエスの行いを見た人にとって、そのように考えることはなにも不思議ではないように思います。
1章でらい病に病んでいた人はイエスの心一つで、自分はきよくしていただける、と考えていました。
ルカによる福音書の7章には自分のしもべが病気で死にかけているとき、イエスにわざわざ家まで来てもらわないでも、イエスのことば一つで必ずいやしてもらえる、と考えていた百人隊長がいました。
この人たちはイエスがそう命令するだけで、病気がいやされる、汚れがきよめられる、イエスの力に信頼していました。
どのように多くの人がツインタワーで亡くなった
驚くべきことは、この女の人が、もしかしたらイエスの意思に関係なく、とにかくイエスの服にでもさわることができれば自分は救われる、と考えていたことです。
なぜそのように考えていたのか、ここには説明されていません。
これは僕の推測であって、必ずしも正しい解釈ではないかもしれませんが、もし、この人がイエスの本質を実は理解していて、イエスは旧約聖書で言われている神が人となって私たちのうちに住まわれた方であることをもし理解していたとしたら、もしかしたら、その服にでもさわることができれば自分は救われる、と考えていたことは不思議ではないように思います。
この女性がさわるものはみな、汚れたものとみなされました。
しかし、神が人の汚れによって汚されることはありません。
その神にさわろうとするのなら、汚れのある人はたちまち滅ぼされるか、もしくはその汚れがきよめられるか、でしょう。
この人はイエスによって人々がいやされ、きよめられていることを聞いていました。
この人もまた、ヤイロと同じく、イエスの人を汚れからきよめる力に頼りました。
彼女の信仰もまた、「なんだかよく分からないけどとにかく信じ込む」というようなものではなく、イエスを信頼するだけの明確な理由があったものと考えられます。
3.「だれがわたしの着物にさわったのですか」?
29節「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。」
この人がいやされたのは、この人が疑いなく心の中で信じたから、ではなくて、イエスの力によるものです。
それはイエスのうちから力が外に出て行った、という記述からも理解されます。
驚くべきことは、イエスにはそのような不思議な力があったのに、だれが自分の服にさわったのかがすぐには分からなかったように記述されていることです。
実に、イエスが知るべき事を知らないでいるように書かれている記述は他にないのではないでしょうか?
しかし、マルコによる福音書の2章でイエスが中風の人をいやした時、その場にいた律法学者が心の中で理屈を言っているのをイエスは自分の霊で見抜いていた、とあります。
ですから、今日の箇所にはそう説明されているわけではないのですが、イエスが「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われたとき、それはイエスが本当にだれがさわったのかを知らなかった、と言うよりも、むしろ、この問いかけは長血をわずらっていた女性が自分から名乗り出ることを促すため、と考えられます。
イエスがこのように言わば人を試す質問をした事が、ヨハネによる福音書6章にも記されています。
イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。
「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
ヨハネによる福音書6章5節と6節(新改訳聖書)
4.なぜイエスは女性が打ち明けるのを待ったか?
長血をわずらっていた女性はいやされ、彼女は誰にも気づかれずに去ってハッピーエンドとなるはずでした。
ところがイエスは立ち止まり、この女性が自ら打ち明けるのを待ちました。
なぜでしょうか?
それは、イエスに病気をいやされ、しかしその後、イエスと全く関係なく生きていくならば、それは真に救われたことではないから、ではないかと思います。
今日でも、自分の罪はイエスが代わりに罰を受けたことによって神に赦されている、と言っていながら、イエスの教えと関係ないような生き方をする人たちがいます。
それは真に救われたことではありません。
彼女にはイエスの前に出てひれ伏し、イエスに自分の事を知ってもらうこと、そしてイエスの言葉が必要でした。
5.イエスの「やさしさ」
33節「女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」」
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僕はこのイエスの言葉に限りない優しさを感じます。
彼女は12年間、苦しんでいました。
その苦しみのあとで、このような言葉をイエスに言ってもらったことはどんなにか幸いなことであったでしょうか。
その言葉を聞いた女性が、どのような応答をしたのか、聖書に書かれていません。
しかしイエスの言葉どおり、その出血の病気から生涯解放されて、イエスを自分の救い主と信頼して生きたのではないかと思います。
35節「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」
この言葉を聞いてヤイロがどのような応答をしたか、書かれていません。
しかしマタイの福音書によると、ヤイロはイエスの前に来た時こう言ったとされています
「私の娘がいま死にました。でも、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります。」
もしかしたらヤイロは家から人が来て「あなたのお嬢さんはなくなりました」と言われたとき、イエスに、それでもイエスが来てくだされば娘は生き返るでしょう、と言っていたかもしれません。
イエスは言われました。「ただ信じていなさい」
この「信じる」という言葉は、「信仰」と訳されているピスティスの動詞形であるピスティオという言葉です。
「ただ信頼していなさい」
とイエスはヤイロに確証を与えられました。
37節「そして、ペテロとヤコブとヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれも自分といっしょに行くのをお許しにならなかった。彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」」
なぜ弟子たちのうちペテロ、ヤコブ、ヨハネだけが一緒に行くことを許されたのか、説明されていません。
他の弟子たちは人々が入ってこないようにガードしていた、とかなにか実用的な理由があったかも知れません。
このとき死人をよみがえらせる奇跡の目撃者となって、イエスの言われたとおり誰にも話さないでいられたのはこの三人であったのかも知れません。
後にこの三人はイエスが十字架にかけられ復活した後、教会が成り立っていくことの重要な基礎になりました。
イエスは「子どもは死んだのではない。眠っているのです。」と言いました。
それは子どもは実は肉体的に死んだのではなくて気を失っているだけです、というような意味であったでしょうか?
ヨハネによる福音書11章でイエスはラザロという人を生き返らせます。
(イエスは)弟子たちに言われた。
「わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。」
そこで弟子たちはイエスに言った。
「主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。」
しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。
「ラザロは死んだのです。」
ヨハネの福音書11章11節から14節まで(新改訳聖書)
イエスは人が肉体的に死んだ状態の事を「眠っている」と言いました。
それは肉体的に死んだ状態は最終的な死ではないからだと思われます。
神の審判の時にすべての人は肉体的な死からよみがえって、審判を受け、ある人たちは永遠に神とともに生きる天の国へ、ある人たちは永遠の裁きの火の中へと分けられます。
この永遠の裁きの火の中へ行くことが本当の死です。
肉体的に死んだ状態はいずれ起きることを待っている「眠っている」状態、と言えるでしょう。
しかし人々はイエスの言葉を理解できず、またイエスが死人をよみがえらせる力を持っていることも知りませんでした。
40節「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスはみんなを外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へはいって行かれた。そして、その子どもの手を取って、「タリタ、クミ。」と言われた。(訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味である。)すると、少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。十二歳にもなっていたからである。彼らはたちまち非常な驚きに包まれた。イエスは、このことをだれにも知らせないようにと、きびしくお命じになり、さらに、少女に食事をさせるように言われた。」
マルコによる福音書はギリシア語でかかれましたが、イエスが普段話していた言葉はアラム語であったと言われています。
「タリタ、クミ」はアラム語です。
人は死ぬと血の流れが止まって血の気がなくなり冷たくかたくなります。
この少女はそんな死んだ状態でしたが、イエスの言葉によってすぐさま起き上がり、歩き始めました。
見ていた人の驚きは大変なものであったでしょう。
イエスはこのことをだれにも知らせないようにときびしく命じました。
おそらくは、このことが知れ渡れば病気の人だけでなく、死んだ人をよみがえらせて欲しいと人々が押しかけるからであったのではないかと考えます。
イエスはそのあわれみによって、人々が自分を頼ってきた時に、その願いを聞いていましたが、イエスがこの世界に来たのは人を肉体的な死からよみがえらせることではなく、人を霊的な死から解放するためです。
イエスは少女に食事をさせるように言われました。
ここにも僕はなにか、イエスの優しさを感じるのです。
6.イエスに信頼する人は誰でも救われます
もし聖書で言われている「信仰」とは「イエスを頼りにすること」なのだとしたら、なぜイエスは長血をわずらっていた女の人に「あなたがわたしを頼ったのであなたは救われました」と言わずに、「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われたのでしょうか?
また「あなたのお嬢さんはなくなりました」と聞いたヤイロに対して「恐れないで、ただ私に頼っていなさい」とは言わずに「ただ信仰していなさい」と言われたでしょうか?
このあいまいさのために、この箇所だけを読んだ人は、信仰するとは思い込んで疑わないことだと考えてしまい、自分が信頼するべき相手の言葉を聞くことよりも、自分の思い込みのほうが大事になってしまうことがあります。
一番初めの例で言えば、自分の病気が治って一年以上この世界にとどまっていることの方が、自分がどんな状態にあっても神の御心を行うことより大事になってしまうということです。
しかし考えてみれば、マルコによる福音書の中でイエスは一度も「わたしは救い主である」とも「わたしは神の子である」とも「わたしは人となった神である」とも言ってはいません。
イエスは一度として自分は人となった神であるなどとは言っていない、イエスは人となった神ではない、と信じたい人はいつまでもそのように信じ続けられるように、しかし、イエスの言葉を聞いて、その行いを見て、この方こそ人となった生ける神である、と信じたい人はそう信じられるように、そのようなあいまいさが意図的に残されているのかも知れません。
あなたはイエスに信頼したいと思うでしょうか?
それとも自分の考え方を信頼していたいと思うでしょうか?
祈りましょう。
もし、今日、このイエスに頼って、神に自分の罪を赦していただきたいと願われるのなら、僕と一緒に次のように祈ってください。
神様
わたしはあなたを無視して、あなたに逆らって生きてきました。
わたしはあなたに受け入れられる資格がありません。
どうか赦してください。
それなのにあなたはイエスをこの世界に送り、わたしの代わりに彼を罰してわたしの罪を赦してくださったことをありがとうございます。
わたしに希望が与えられるようにと、イエスがよみがえられたことをありがとうございます。
どうかこれから、あなたに聞きしたがってイエスを自分の主として生きていけるように、わたしを変えてください。
イエスの名によって祈ります。
アーメン
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