2012年5月31日木曜日

旅のパーツ 男70歳代、独りヨーロッパを往く


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前のブログで、「私には絶対方向感があり、一度行ったところへは地図無しでたどり着ける。」と書いた。
しかし、「3年前のことだ。ただ記憶が残っていただけなんだろう。」と言う人があるかもしれない。
確かにその通りである。

けれども、これを聞いてもらえれば、「私の絶対方向感を確信して戴ける」取って置きの話がある。

オランダのアムステルダムのお話である。

その観光名所の一つに、「アンネ・フランクの家」がある。
私が初めてそこを訪れたのは、1974年、今から37年前のことだ。
2度目に行ったのは2004年のことで、その間30年隔たっている。

その二回目の訪問の際に「家」の前に立った時、風景が前に見たのと少し違うことに気がついた。

右斜め前方� ��大きな教会の屋根が見える。
正面から教会に向かって臨む角度が前より少し大きくなっている。
家の中に入っても、何となく前と微妙に違う。

そこで、係の人に「30年に来た時と様子が違うと思うんだけど、何か変わっていることはないのか?」と尋ねた。
すると「この家は本物の家の一軒隣である。アンネが住んでいた家は観光客の出入りで痛んできて保存が困難になり、教会から離れた側の隣の家を公開している。」との返事であった。

それから7年経っているが、おそらく本物はもう公開されることはないと思う。
それを確かめに2~3年後にオランダを訪れたいと思っている。

ともあれ、恒久的だか一時的だかは不明だけど、少なくとも2004年の頃は「お隣さん」が公開されていたのだ。
� ��が調べた限りでは、ガイドブックにもインターネットの書き込みにも、この事に触れたものはない。
ネガティブな事柄を誰も公にしない(それ以前に、この事実を知らない)からであろう。
すなわち、これを知っているのはオランダ政府の文化庁・観光局の職員と近所に住む極く一部の人しかいないことになる。
日本人では、私一人かもしれない!!

逆に言えば、嗅覚がするど過ぎて知らねばよかったことを知ってしまい、夢を壊してるのかも?!

2011年11月18日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

今年の旅行でも、ご他分に洩れず、様々なハプニングに遭遇した。
その中でも、皆さんは滅多に体験しないであろう「ホトンド私だけの出来事」について書いてみよう。

まず第一の大事件は「持って行ったパソコンが旅の初めに壊れてしまったこと」である。

親しい人へ送った絵葉書に「パソコンが使えないことを除いては、旅は順調です。」と書いた。
しかし、これは本音ではない。
パソコンが使えないことは、私にとって「旅の楽しみを半減する」程の大きな痛手なのである。

ともかく、ブログが書けない。
さらに、交通・気象などのリアル・タイムの貴重な情報が得られない。
さらにさらに、ウオークマンの充電ができない。

この不便を解消するために、日本語が使えるコンピュータ を置いているインターネット・カフェを探す。
そんなものが見付かるはずがないと思いつつ、奇跡が起こることを一縷の望みにして街をさまよい歩くことになる。
こうして、イライラしながら時間と体力を無駄に消耗してしまう。
予定していた観光がこなせない。
ストレスが溜まること、この上なしである。

結局、プラハでもブダペストでも、日本語が使えるコンピュータには巡り会えなかった。
ようやく私の条件に合うコンピュータに出会ったのが、旅行開始6日目のウィーンのインターネット・カフェ。
このカフェは、3年前に使ったことがある。
その時コンピュータを持っていたが、ホテルに無線LANが無かったので、やむを得ずそこでブログを書いた。

今回は無線LAN完備のホテルを予約し ていたので、まさかここを使うとは予想だにしていなかった。
ウィーンは3回目で、かつ2泊しかしない予定だったので、カイドブックは持ってきていなかった。
ということは、店の名前も、所在地も全く分からない状況だった。
では、どうしてこのカフェにたどり着けたのか?

ここから、私の真骨頂を発揮する。

私は、例えそれが何十年前であろうとも、自分で探しながら歩いた道はくっきりと思い出すことができる。
まるでVTR、いや今ではDVDかな(?)、を再生するが如くに。

私の本能は「先ず地下鉄に乗って『カルルス・プラッツ』まで行け。そしてリング(ウィーン旧市街の環状道路。トラムも走っている。)の内側に入れ。そこから東に2筋歩き、左折して北へ3筋歩け。赤っぽい建物で行き止ま っているから、そこを左折しろ。カフェは左手にある。」と言っている。

その通りに歩いてみた。
東に一筋歩いたところで左を見たら、見覚えのある風景が広がっていた。
ここの一筋は「普通の一筋」よりも遙かに長いので、2筋と勘違いしていたようだ。
あとは本能の命ずるままに歩き、一発でカフェが見付かった。

私は、常々、「私には、犬と伝書鳩との本能が兼ね備わっている。」と豪語している。
地図とコンパス(方位磁石)が有れば、世界中のどこへでも行ける。
一度行ったところなら、何もなくても目的地にたどり着ける。
頭の中の映像記憶機能は、下手なコンピュータを上回っている。
これが「どこへ行っても物怖じしない」原動力の一つなのだ。

初めての土地でタクシーに乗って、帰 りは歩くことなどはヘッチャラである。
37年前に歩いた「スイス・グリンデルヴァルトの山道」の道筋もはっきりと憶えている。
私はこのことを「絶対方向感」と言うのだと信じている。

ということで、ウィーンのインターネット・カフェには無事たどり着いた。

後は、チェコ人の友達のコンピュータを借りたり、ローテンブルクのカフェで和文字を打ち込めないコンピュータを使って、ローマ字でこのブログを書いたりもした。

パリでは、たまたまガイドブックで見付けた「日本人専用のインターネット・カフェ」を5回使った。

そういう訳で、今回の旅行では「インターネット・カフェ代」が高くついたヨ。

2011年11月13日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

今年(2009年)の旅は、過去16回の海外旅行で間違い無く最良の旅であった。
その理由を列挙してみよう。

(1) 健康に恵まれた。
一ヶ月の旅行中には、「今日は疲れたから、ホテルで寝ていよう」とか「風邪薬を飲んで静養しよう」という日が2?3日有ってもおかしくない。ところが、今年はそのような日が全く無かった。
午前2時に寝、5時に眼を醒まし、風呂に入る。6時半~7時からの朝食を済ませ、直ぐにホテルを飛び出す毎日であり、疲れたという感覚が無かった。
このことが、以下に述べる「全て良し」の結果に繋がったと思う。

(2) 多くの友人を得、多くの人と話ができた。
私の旅の第一目的は、「地元の人と話すこと」および「友を作ること」である。
勿論、景色か良いに越したことはないが、それは二の次である。

今回、現在でもメールを交換している三人の言語関係者に出会った。
一人は日本の方で、「自動翻訳」を研究している学者。
もう一人はドイツ人で、スカンジナビアの少数民族「サーミ人」の言葉についての辞書や文法書を出版している言語学者。
最後は、偶然知り合い、チェコ語の基礎を教えてくれたチェコ人男性。

その他、これから連絡しようとしている「ドイツの室内装飾家の女性」や「ドレスデンの国立美術館に勤めるチェコ人女性」。
旅の途中で会話を交わした「忘れえぬ各国の人々」やこのブログを紹介し� �「日本人旅行者の方々」。


大恐慌時のアメリカでの生活

(3) ヴァラエティーに富む旅行ができた。
歴訪した六ヶ国はそれぞれに特徴があり、その違いが明確に解ってきた。
その内容は、いずれ述べることにする。

交通手段も多様であった。
・初めてヨーロッパの都市間で飛行機による移動をした(オスロ~ホニングスヴォグ)。
・11時間半に及ぶ長距離バス移動を経験した(ホニングスヴォグ~ロヴァニエミ)。
・11時間の船旅をした(トゥルクー~ストックホルム)

(4) 音楽にも恵まれた。
正式のコンサートは、プラハでの弦楽四重奏のみだった。

しかし、グロッセン・ブローデでは、水兵さん20人ほどのコーラス(無料)を聞いた。85歳のテノールがすごかった(私はまだヒョッコだ)。

ストリート・ミュージッシャンに凄いのがいた。
・オスロのバイオリン一丁のアイネ・クライネ・ナハトムジーク。
・ヘルシンキのチェロによるハイドンの交響曲。
・ヘルシンキのインディアン縦笛によるエレチョクロ(ジャズ・ナンバーのKiss of Fire)など。彼のCDを買った。
・ドレスデンのクラシック音楽トリオ。彼らのCDを買った。

(5) 外国語を喋る自信が一層増し、新しい言葉を習得したくなった。
英語では、思ったことの7割が表現できるようになった。英語なら30分や1時間のお喋りをしても疲れない(そんなに長く日本語で喋ることなんて滅多に無いのに)。
ドイツ語も話す機会が多く、相当上達した、と思う。
イタリアン・レストランに入った時は、英語は一言も喋らずに、イタリア語だけで済ませられるようになった。
フランス語とスペイン語は話す機会が少なかったが、それ相当の進歩はあった。

これらを踏まえて、私の出した結論。
第六のヨーロッパ語として、チェコ語を覚えることにした
そして、再来年(2011年)はプラハとミュンヘンで各一ヶ月間暮らすことを決意した。

2009年08月17日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

帰ってきてから言うのは少々おかしいが、今年はよくぞ旅に出掛けられたものだとつくづく思っている。

「北欧とプラハを旅する」という構想は前々から持っていた。
今年、それを実行しようとしたのは、以下の理由からだ。

第一に、「来年からは動き回るのは止めて、二都市滞在型の旅にしよう」と考えているからだ。
私にとって未知の「北欧とプラハ」は、最後の「駆け巡る旅」として相応しいものであった。

第二に、ドイツ北部に行く必然性があった。
高校同窓生の中に、ドイツ北部に住む女性KKWさんがいる。
2年前に彼女が来日した時に、「2年間生き永らえていたなら、その内にドイツへ行くから」と言っていた。
その約束を果たす期限が今年だ。
陸路で北欧からプラハへ行くにはド イツを通るのが最も一般的であり、恰好の旅行コースである。

第三に、今年からチェコがユーレイル・パスの対象国になり、チェコ国内の旅行が便利になった。

ということで、今年の旅行の手配は1月半ばに終えてしまった。

しかしながら、出発の1月半くらい前になって思わぬ障害が発生した。

家内が5月18日にガンの手術を受けることになった。
例年なら私の旅行は5月下旬~6月下旬なので、家内の退院と私の出発が同時期になってしまう。
ところが、今年は「北欧」ということで、例年より1ヶ月遅く行くことにしていた。
そこで、出発ぎりぎりまで様子を見ることにした。

もう一つの障害は、新型インフルエンザの世界的流行が懸念されたことだ。

しかし、幸いなことに、両者共私の旅行を断念� �せるには至らず、出発できることに相成った。

私の旅行コースは、本ブログに断片的に書いている。
しかし、ブログからだけでは、全旅行コースを的確に判断するのは困難だと思われる。
そこで、宿泊した街の名と宿泊日数を書いておこう。
なお、括弧内は国名で、
N : ノルウェー、 F : フィンランド、 S : スウェーデン、 D : デンマーク、   G : ドイツ、 C : チェコ  を表す。

宿泊地
オスロ(N) 2泊、 ベルゲン(N) 1泊、 オスロ 再び2泊、 
ホニングスヴォグ(N) 1泊、 車中 1泊 、 ロヴァニエミ(F) 1泊、 
ヘルシンキ(F) 3泊、 トゥルクー(F) 1泊、 ストックホルム(S) 2泊、     
テルベリー(S) 2泊、 コペンハーゲン(D) 2泊、 オルフース(D) 2泊、    
グロッセンボーデ(G) 2泊、 ベルリン(G) 2泊、 ドレスデン(G) 1泊、    
プラハ(C) 2泊、 チェスキー・クルムロフ(C) 1泊、 プラハ 再び2泊。

2009年08月09日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:1

私の過去の海外旅行では、ヨーロッパとアメリカ(合衆国)しか行っていない。だから、行ったことがあるのは「欧米かッ?!」とトシに頭を殴られても仕方がないのである(海外に住んでいる人は、この文のどこが面白いか理解できないであろう)。

暇ではないが、この文章を書くために数え上げてみると、15回の欧米旅行で合計61回飛行機に乗っている。思い出に残る飛行を書いてみよう。

1974年6月、初めての海外旅行で使ったのは、アエロ・フロート航空。現在のロシア、当時のソビエト連邦の航空会社。値段が安いのが特徴だが、ダブル・ブッキングが多いので有名だった。だから、たとえチケットを持っていても、自分の座席に座るまで安心できなかった。
行きは成田-モスクワ-パリ、帰り� ��ローマ-モスクワ-成田と無事に飛行した。

二度目の海外旅行は、1975年11月、アメリカのサン・ディエゴ。当時は、アメリカ本土へ行くには、必ずハワイのホノルルで入国し、その後国内便で海を渡った。航空機の飛行距離が短いのと入国手続きの便宜のため、このようなシステムとなっていたのだ。お陰で、往復の各2日間、ハワイで遊ぶことができた。ただし、この頃アメリカに行くにはビザが必要で、神戸のアメリカ領事館までビザを取りに行くのが面倒だった。

三度目の旅行は、アメリカのテキサス州オースチン(1982年7月)。南のテキサスへ行くのに、まず下りたのが北方のシアトル。7月なのに吹雪で2 時間遅れ。乗り継ぎの便が間に合わず、次の便でデンヴァー(コロラド州)へ。さらに乗り継いで、オースチンへ。長い飛行旅だった。

4度目は、まず、ニューヨークのジョン・F・ケネディ空港へ。成田出発が5時間以上遅れた。目的地は、ニュー・ジャージー州(ニューヨーク州のすぐ北の州)のニュー・アーク空港。乗り継ぎの便がないため、ヘリコプターで移動。プロペラ音の喧しいのには閉口した。

5回目はヨーロッパ5ヶ国(1991年9?12月)。ノーマル料金のエグゼクティヴ・クラス。航空便の変更が自由にできるのはありがたかった。
名古屋-成田-マドリード-ロンドン-ミュンヘン-ジュネーヴ-マルセイーユ-パリ-成田-名古屋、と渡り歩く。

6?8回目は、すべてパリ。大韓航空利用。

9回目からは、今日に至るまで、エール� �フランス航空利用。
1991年と今年を除いて、必ずパリの街で何日かを過ごしている。
使った空港は、トゥルーズ、マルセイーユ、リスボン、チューリヒ、ウィーン、ローマ、フィレンツェ。

6回目以降は航空機に関して順調で、特記することが無い。ご同慶の至り。

2008年07月26日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0


個人旅行をしている人は、どのような基準でホテルを選んでいるのであろう?

私のヨーロッパ旅行では、移動手段としてもっぱら公共交通機関を利用している。そのような状況で、旅の宿を探す時の条件として、次のようなことを心掛けている。参考にしてもらいたい。


警察の押収を取り戻す方法

ホテルを探す時、まずターミナル駅から徒歩5分以内を第一条件とする。ここで「ターミナル駅」とは、その街に中央駅があればそれを、無い場合は空港からのリムジーンバスが到着する国鉄駅、を指す。
大きな駅の近くのホテルは一般的には割高であるが、それには代えられない利点がある。
ターミナル駅からさらに地下鉄またはバスでホテルに向かうことを考えよう。夜遅く疲れてターミナル駅に着いたとき、さらにそこから乗物に乗るのは大変である。駅を探し、自動販売機でキップを買い、行く先を確認しなければならない。つい億劫になって、タクシーに乗ってしまう。そういう経験は無いだろうか?
その点、ターミナル駅近くだと、余計な出費は避け� ��れる。
さらに、郊外に出掛けるときは大抵ターミナル駅から出発する。すると、ホテルとターミナル駅の間の往復運賃が必要となる。
ターミナル駅近くだとその必要はない。
さらに、さらに、ターミナル駅近くのホテルには、次のような使い方がある。
午前中にAという場所へ観光に行き、午後はBという場所へ出掛ける場合がよくある。そして、AからBへ行くには、一旦ターミナル駅まで戻る場合がしばしばある。このとき、駅のトイレを利用しようとすると、大抵は有料だし、混んでいることが多い。そのような時、私はホテルに戻り、自分の部屋で心おきなく用を足す。ついでに、午前中に貰った地図・パンフレットを置いていく。また、午前に持ち忘れたものを補充する。
このように、ターミナル駅近くのホテルは 、公衆トイレとロッカー・ルームの役目もしてくれる訳である。

とは云え、この方法は大都会(例えば、パリ、ロンドン、ベルリンなど)では、思い通りにはいかない。
今年の旅行では、ようやく見つけたウィーンのホテルはターミナル駅「ウィーン西駅」から4つ北の地下鉄近くであった。

こういう制限はあるものの、ターミナル駅近くに宿を取るよう努力してみることは価値があると思っている。

2008年07月24日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

ホテルに関する思い出は強烈なものが多い。

1974年6月、私が35歳の時、生まれて初めて海外旅行を経験することになった。核融合に関する国際会議に出席するのと関連研究所を視察するためである。
その「御一行様」は私一人。つまり単独旅行であった。
「生まれて初めての海外旅行」で、「タッタ一人だけの旅行」なのに、ソレなのに、私はホテルを予約していかなかった。
最初から海外旅行を舐めきって、「マア何とかなるサ」と考えていたのだ。こんな人は、たぶん他にはいないだろうナ。

さて、初めて踏んだ外国の地はパリ空港。当時はシャルル・ド・ゴール空港なんて影も形もない。パリと云えばオルリー空港、と相場が決まっていた。
初めてのホテルは、エール・フランスのカウンターに日本 人女性のスタッフがいたので、紹介してもらった。××行きのバスに乗り、△△で降りればホテルがあるという。
ところが、バスの停留所が何処にあるのか分からない。ウロウロしていると、パリジャン数人が寄ってきて「そのホテルならタクシーで行け」、「イヤ、タクシー代の方が宿代より高くなるゾ」などと勝手なことをぬかしておる。そこで私は「あそこに見えているホテルまでタクシーで行くから、俺に構うな。」と彼らを振り切った。この時に私の「海外武勇伝」が始まった。何人(なんびと)も恐るに足らず、と。

ところで、私が泊まった最も高いホテルと最も安いホテルを紹介しよう。

最高値のホテルは、スイス・チューリヒのホテル・シュヴァイツァーホフ・チュ ーリヒで、35000円位(1999年6月)だった。
この時は、当日の朝インターラーケンを出発し、ユング・フラウ・ヨッホとミューレンへ行き、インターラーケンに戻った。さらに、翌日帰国するためにチューリヒにたどり着かねばならなかった。チューリヒに着いた時、当日の行動時間はすでに16時間を超え、クタクタだった。ともかく早くホテルに入りたい一心で飛び込んだのが、駅前のこのホテル。もう値段なんてどうでもよかった。しかし、帰ってからクレジット・カードの請求を見て、後悔せずにはおられなかった。

最安値のホテルは、アムステルダムの飾り窓街(1974年6月)。ベッドだけの狭い部屋で、トイレ・シャワーは共同。1500円だった。
その他、安宿ならマルセイーユのアラブ人街、パリ北駅付近の怪しげな宿に泊まった� ��とがある。

ホテルではないが、素晴らしいところに泊まったことがある。ミュンヘン郊外のマックス・プランク研究所の宿泊設備だ。研究者が家族と共に暮らせるように、広くて設備が行き届いていた。しかも、宿泊費は格安。もちろん、仕事で行かないと利用できないが、ずいぶん得をした感じがした。

最後に、特別なホテル。コルシカ島(フランスですョ)のアジャクシオで去年泊まったホテル。TVで無料のポルノを流していた。有料のポルノは珍しくないが、無料のハード・ポルノとはネェ。さすがはナポレオンの生まれた街。ここでは、英雄だけではなく、民衆も「色を好む」ようだ。

2008年07月18日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

個人の海外旅行で「自分の意志で選べる三大要素(これをトラベル・パーツという)」は、航空券(航空会社、目的地)、目的地での移動手段(鉄道、バス、レンタカーなど)とホテルであろう。
反対に、「自分の意志ではどうにもならない要素(これはトラベル・パーツ[Travel parts]ではなく、トラブル・パーツ[Trouble parts]というべきか?)は、天候、災難とハプニングであろう。

今回は、今年の旅行で経験した「ホテルの諸事情」について述べる。
ホテルに関する今年の最大関心事は、インターネットができるかどうかであった。その情報を筆頭に、ホテルの設備等」と「客への対応」について、私が泊まった11のホテルに関する評価をまとめる[()内のオはオーストリア、イはイタリア、スはスイス、フはフランスを示す]。

                  インターネット  設備   対応
ウィーン(オ)              ▲      ○    △
ザルツブルク(オ)           ◎      ○    ◎
インスブルック(オ)           ×      ▲    ▲          
コルティナ・ダンペッツォ(イ)     ×      ○    ○
ボルツァーノ(イ)            ▲      ○    ▲
サン・モリッツ(ス)           ◎      ◎    ◎
ツェルマット(ス)             ◎      ○    ○    
シャモニー(フ)              △      △    ◎
アオスタ(イ)               ▲      ◎    ×
ミラノ(イ)                 ▲      ○    ×
フィレンツェ(イ)             △      ○    ◎

各ホテルで特筆すべき点を掲げる。

ウィーン  
通された部屋には6つのベッドがあった。泊まるのは私だけで相部屋ではない。広い部屋が好きな私は、もちろん、クレームはつけていない。部屋の中でジョギングができた。インターネットは、高い金を支払ってインターネット・カフェで行うより他に手はなかった。

インスブルック
インターネットは使い物にならない。チップを置かぬと「イジワル」をされる。

コルティナ・ダンペッツォ

インターネットはまったくダメ。宿のオヤジさんは友好的。かつて泊まったナポリの宿のおじさんとよく似た顔立ちをしていた。イタリアの庶民顔。


肥満のために楊州を非難する理由

サン・モリッツ
ここは、最高のホテル。フロント(Reception)のオネーさんに英語、フランス語、ドイツ語のいずれの言葉で話しかけても的確な返事が返ってくる。各種レストラン4軒とテイク・アウトの店まである。駅からバスで15分かかることを除いては、文句の付けようが無い。オススメの宿。

シャモニー
インターネットは近くの観光案内所か図書館で、無料で行える。部屋は床がギシギシ鳴った。フロントは、日本語の片言を喋り、友好的。

アオスタとミラノ
インターネットは有料で、かなり高価につく。フロントの態度は頭にくるほど悪い。詳細はまたの機会に。

と言うわけで、
もう一度泊 まりたいホテル
サン・モリッツ、ザルツブルク、ツェルマット
二度と泊まりたくないホテル
インスブルック、ミラノ、アオスタ、ボルツァーノ

最悪のホテル4軒中3軒はイタリアだよネェ。お国柄というべきか....
もっとも、その街にある全てのホテルについて評価をしている訳ではない。たまたま私が選んだホテルがそうだったと言うこと。誤解しないように !!

2008年07月17日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

先回、「『ホテルの従業員の対応』と『その国のお国柄』の関係」について書いた。これは、私の数少ない経験から割り出した結論であり、普遍性があるかどうかは自信がない。すなわち、フランスとスイスは近代的雇用関係が確立しているのは間違いない。しかし、オーストリアとイタリアが前近代的雇用関係に留まったままであるかについて、きっちり調べたわけではなく、私の推測の域を出ない。

この点を指摘して下さったKKLさんにお礼を言いたい。なお、KKLさんはフランス在住の日本人女性(夫君はフランス人)で、フランス北西部にあった「ソニーの下請け会社」に勤務していた。出張や休暇でしばしば西ヨーロッパ各地へ出かけ、ホテルの利用回数は私より遥かに多い人である。

さて、帰宅して10日が過ぎた� �旅の余韻も消え、通常の生活に戻った。それでも尚、今年の旅行は充実していたという念は強い。多分、今年の旅に「計画性」があり、それがほぼ実行できたためであろう。

旅行のスケデュールは、今年の初めにほぼできていた。しかし、詳細はまだ不明なところが多かった。特に、ドロミテ山塊は「イタリア全体のガイドブック」には記述がない。そこで、区の図書館で調べ始めた。その時、「最後の晩餐」の見学は早期の予約が必要ということを知り、2月半ばに予約した。ホテルは 4月中に予約。チロル地方、サン・モリッツ、ツェルマット、モン・ブラン山系の展望台についても、そこから見える山々の写真と名前のページをコピーした。私にとって、これほど旅の準備をしたのは初めてのことである。いつもは、大まかな旅のコースを決め、飛行機を予約すれば、計画はほぼ終わり。あとは現地に着いてから、何をするか、次はどこへ行くかを決めていた。

そのような「自由奔放」な、逆に言えば「無計画」な旅は、2007年7?8月の32日間であった。当初予定は、フランス・スイス・イタリアを巡る旅で、時刻表・ガイドブックはこの3ヶ国分しか持っていない。ただ、ユーレイル・パスはグローバル(ヨーロッパのほとんどの国で通用)・パスを購入していた。フランス・スイスを予定通り終え、ミラノ・ヴェネツィ� �も無事終了した。次は、フィレンツェへ行く積りでヴェネツィアのサンタ・ルチーア駅に行った。発車案内盤を見ると、次に出る列車はウィーン行きだった。この時、私は神の啓示を感じた(神様は信じていないけれど)。イタリアは暑くてしようがないし、車掌や警官とのいさかいも有った(相手は英語があまり喋れない)。そこで、さっさとウィーンへ行ってしまった。

当初予定ではフィレンツェ・ナポリ・ローマと行き、ローマからマルセイーユまでの航空券を特別料金を払って買ってあった。しかし、そんなことはどうでもいい。涼しくて、言葉の通じる国に行きたかった。

ウィーンからはブダペスト・再びウィーン・ザルツブルク・ベルリン・ハンブルク・アムステルダム・ブリュッセル・ルクセンブルグを経て、パリで「 旅の帳尻」を合わせた。

この旅では、ホテル探しは当然、観光の仕方も現地に着いてから決める必要があった。旅行案内所やホテルでの情報収集に時間がかかって、観光効率はよくなかった。

このような旅行に比べると、今年のは予め調べてあったので、効率はずっとよかった。やはり、「行き当たりばったり旅行」より「計画をよく練った旅行」の方が「一日の長」があるようだ。

という訳で、「今年の旅の総括」はメデタク終わりにしよう。

次回からは、今年の旅で書き残したもの(既に書いたのより多いはず)について述べよう。

2008年07月09日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

最近、我が家で音楽を聴くことがめっきり減った。余りにも趣味が多いので、じっくり音楽を鑑賞している暇がないというのが正直なところ。でも、今朝は久しぶりに聴いた,ヴェルディ作曲「椿姫」を。聴いていて、この歌詞の意味が少しでも解ればもっと楽しいだろうと思った。ソウだ、一年半前に決心して頓挫した「イタリア語の本格的な勉強」を再開しよう。

今年は、国としては4ヶ国を訪ねた。オーストリア、イタリア、スイス、フランスである。この4つの国について、ホテル従業員(いわゆる、メイド)の対応から「その国の『お国柄』」を考察してみよう。ただし、このような考察は今年の旅行だけでは無理があるので、過去の経験も加味する。

私は、原則として、チップ(いわゆる、枕銭)を置かない。そう� �ると、どういう待遇になるか?

今年の場合、インスブルックのホテルでは、石鹸とシャンプーが補充されていなかった。僅かだがチップを置くと、5日分の石鹸とシャンプーがきっちり補填されていた。

今年はそれ程感じなかったが、やはりイタリアのホテルで不満を感じたことがあった。物の補充が悪いとか、ベッド・メーキングが雑であるとかを。

フランスやスイスのホテルでは、そのような感想を抱いたことはない。

これは、何を意味するか?

オーストリアやイタリアでは、メイドは安い給料で雇われていて、いまだに客からのチップが生活の糧になっているのであろう。これに対し、フランスやスイスでは、チップに頼らなくてもよい「雇用関係」が結ばれている(フランス政府公認ガイド HT さんの情報やスイス政府観光局のパンフレットによる)。

こういう意味で、オーストリアやイタリアは前近代的な社会構造であることがうかがい知れる。

これは、公衆用ワイヤレス・インターネットの普及についても、同じような状況にある。フランスやスイスでは、無料の無線LANが楽しめる。それに対し、オーストリアやイタリアでは使いものにならないか、使えても有料(それも、かなり高い)になってしまう。ただし、ザルツブルクは例外である。ここの郊外にはソニーの工場があり、インターネット環境が整っている(ソニーの元フランス下請会社に勤めていたKKさんからの情報)。

このように、何ヶ国かを旅行していると、その国特有の事情というのが分かってきて面白い。

今回は少し堅い話になってしまった。次� �には、グッとくだけた話をしよう。

2008年07月05日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

前回までは、旅先で体験した事柄とそれに対する喜びや怒りといった「(なま)の」感情を素直に文章として綴ってきた。

これからの文は、今年の旅行を客観的に振り返り、過去の旅の思い出を重ね合わせて、話を多方面に発展させていきたい。

ナ?ニ、話のネタは、これまでに書いた百倍もあるサ。このブログはまだ始まったばかりなのだ。息切れせずに書き続けたとしても、終りがくる前に「来年夏の旅行」が始まるであろう。


さて、今年の旅行を一言で云うと、かなり充実していたと言えよう。もちろん、今はまだ「旅の余韻」が残っているので、評価が多少甘いと感じられる。時間が経つにつれ、より客観的な評価に変わっていくであろう。

今年の旅が、昨年までの旅行と大きく違う点が二つある。

一つは、既に書いたが(ザルツブルクの2日目)、ホテルを予約して行ったことだ。これにより、日程を適宜変更することは難しくなった。その反面、疲れているのに夜遅くからホテルを探す苦労はなくなった。功罪相半ばするが、精神的には今年の方がやや楽だ。

もう一つは、ブログを書き始めたこと。一日のできごとを振り返り、主な事柄を文に記すことより、記憶が鮮烈に残ることになった。それに� ��ブログを書くために、夜遊びが少なくなった。夜11時頃にホテルに帰り、風呂と洗濯を終えて寝、翌朝5時に起きて行動を開始する。こんな無茶苦茶な生活はしなくなった。ブログ様々である。

今年できたこと、したこと

コンサート・・モーツァルト、オペラ・・椿姫

映画舞台のツアー・・第三の男、サウンド・オブ・ミュージック

美術館・博物館・・セガンティーニ美術館、最後の晩餐(レオナルド・ダビンチ)、ウッフィツィ美術館、楽器博物館(アッカデミア美術館)

世界遺産・・ウィーン旧市街、バッハウ渓谷、ザルツブルク旧市街、フィレンツェ歴史地区

アルプス・・イグルス展望台(チロル)、ディアヴォレッツ展望台(ベルニナ・アルプス)、ムオッタス・ムラーユ展望台(サン・モリッツ)、ゴルナーグラ� ��ト展望台、マッターホルン・グレーシャー・パラダイス、シュヴァルツ・ゼー(ツェルマット)、ル・トゥール、フレジェール-ランデックス、シャモニー-プラン・ド・レギーユ-エギーユ・デュ・ミディ-ポワント・エルブロネ-トリノ小屋-パヴィヨン・デュ・モン・フレイ-ラ・バリュー(モン・ブラン山系)、チェルヴィーニア

小旅行・・インスブルック-ボーデン湖、コルティナ・ダンペッオ-ドッビアーコ湖、コルティナ・ダンペッツォ-カラルツォ、ボルツァーノ-プラン、ボルツァーノ-エガ谷、サン・モリッツ-マロヤ-ソーリオ-キアヴェンナ、サン・モリッツ-ポスキアーヴォ、ミラノ-コモ、フィレンツェ-オルヴィエート

今年できなかったこと、行けなかったところ(きっちりと記憶)

ザルツブルクでのコンサート、チロル地� �見物、ドロミテ山塊の中心部(トレ・チーメなど)、エンガディンの展望台(コルヴァッチなど)、ツェルマットの展望台(ロートホルン・パラダイスなど)、モン・ブラン山系の展望台(ブレヴァンなど)、トリュフ料理を満喫

以上で今回は終り。まだまだ何回も続きます。

2008年07月02日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

ヨーロッパ旅行に持っていったパソコン



ホテルであろうと、インターネット・カフェであろうと、他人様のパソコンはともかく使いにくい。
普段使い慣れたパソコンを旅先でも使いたい、というのが人情であろう。

このような願いを叶えてくれるシステムが最近発達してきた。
「公衆無線LAN」である。

日本でも、西ヨーロッパでも、無線LANが使える場所が多くなってきている。
「主だった空港、駅、図書館」や「ホテル、ファスト・フードの店、喫茶店」などである。
前者は無料で使える場合が多いが、後者は大抵有料である。
しかし、何といっても、旅先で自分のパソコンが使える環境が整ってきたことは嬉しい限りである。

しかしながら、自分のパソコンを持って行こうとすると、もう一つのネ� �クがある。
ノート・パソコンとは云え、結構重いのだ。
これまで私が持っていたパソコンは、本体・電源・マウスを合わせて 2kg近くある。
これでは、旅に持って行こうという気がしない。

ところが、最近、もっと軽量のノート・パソコンを入手した。
アスース(ASUS)という台湾メーカー製のEeePC 4G-Xという機種である。
重さは1.1kg強しかない。
これで、やっとパソコンを持って行く気になった。

とは言え、私は国内でも公衆無線LANを使った経験がない。
これで、はたしてヨーロッパで使いこなせるだろうかという不安がある。
しかし、ウジウジしていては何事も進まない。
「ダメ・モト」精神で突っ走ることにしよう。

以上が、今回パソコンを携えて旅に出る経緯である。

2008年05月28日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

前回、旅先でインターネットをする方策を示した。
しかし、パソコンが見つかっても、無条件にインターネットが楽しめる訳ではない。
私の経験から、利用上の注意点を書いてみよう。

(1) 日本語が使えるパソコンであること
日本語の読み書きができないと、ほとんど利用価値がない。
使う前に、必ず確認しよう。
なお、日本語が使えるパソコンでも、メッセージ・ボックス(「保存しますか?」、「はい」、「いいえ」などの指示文)の中身は原語表示となる。ある程度の言語知識が必要である。それがなければ、勘に頼るしかない。

(2) キーボードの文字配列に注意
英語以外のキーボードは、文字配列が微妙に異なる。
その違いを把握することが、パソコン利用の第一歩。
私はフランス語、ドイツ語、イタリア語のキーボードを使ったことがあるが、やはり慣れるまでに結構時間が掛かった。

(3) あまり遅いパソコンは使い物にならない
マルセイーユのカフェを使った時のことである。
ここのパソコンは、コマンドをクリックして2?3秒後にようやく反応するという代物だった。
このような「恐ろしく遅い」パソコンを使うことは精神衛生上よくないので、早々に退散した。
世の中には、信じられないほど「遅い」パソコンが罷り通っている、ということを知っておこう。

2008年05月27日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

私は毎日インターネットを何時間もやっている。だから、旅先でインターネットが使えないと、かなりの不自由と寂しさを感じる。

かつては、この不満を解消するために「ホテルのパソコン」や「インターネット・カフェ」を使っていた。

「ホテルのパソコン」の初利用はウィーンで、2004年のことだった。
他に、ザルツブルク、ナポリでも使った。
ホテルに「公開のパソコン」があれば、大抵はタダで貸してくれる。
しかし、中にはガメツいところもあって、有料のこともある(上記のウィーン)。

初めての「インターネット・カフェ」利用は、パリ・モンパルナス駅の近くで、やはり2004年のことだ。
その後、パリの各地、マルセイーユ、ローマ、フィレンツェで使ったことがある。
カフェは、そ れを生業(なりわい)にしているので、当然有料だ。
使用料金は1時間当たり3ユーロ(380?500円:円相場により変動する)位が平均的で、日本より安い。しかも、分単位で精算してくれる場合が多く、合理的である。

最も安かったのは、パリ北駅のさらに北のアラブ人街。1時間当たり1.5ユーロで、10分しか使わなかったので、支払いは 0.25ユーロ。僅かに30?40円の出費だった。
最も高いのは、ヴェネツィア。1時間当たり8ユーロと表示してあったので、私は店に入らなかった。

このように、運がよければ、ホテルのパソコンが無料で使える。
たとえそれが駄目でも、それ相当の金を払えば、旅行中でもインターネットが楽しめるのである。

2008年05月27日 旅のパーツ トラックバック:0 コメント:0

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